くるみ割り人形
さてこのバレエには原作がある。チャイコフスキーの初演から遡ること76年前、今から200年前。

ドイツ・ロマン派の作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(1776-1822)による小説「くるみ割り人形とねずみの王様」は、1816年に出版された童話、このバレエの原作である。
もともとホフマンが親友の子供たちに実際に話して聞かせた物語である。その子供たちの名前は、なんとマリーとフリッツだったのだ(原作ではヒロインがマリーという名前)。子供たちを魔法の世界へと誘うドロッセルマイヤーは、ホフマンの自画像に他ならない。実際のマリーは当時4歳、フリッツは5歳だった(マリーは13歳で世を去ることに)。

子供向けに書かれた童話であることは間違いない。しかし内容は複雑で混沌とし、甘く美しいメルヘン的世界からは程遠い不気味さに満ちていた。
バレエ版の基本設定は、ヒロインの冒険は彼女の夢と解釈されている。だから最後に夢から覚める。非現実の世界は夢の中にしかない、という考え方に対して、ホフマンの原作は、現実と夢の関係はそんなに“単純ではない”と伝えている。不思議な出来事を訴えるクララに対して「ただ夢を見ただけだ」と大人たちは決めつける。しかし物語の最後で、くるみ割り人形に姿を変えられていた青年と結婚し、王妃になってしまうオチがついている。人形の国の王妃になる…これは可笑しな話だ。すなわち夢の世界の住人になってしまったというか、別の世界に取り込まれてしまった訳だ。現実から始まって夢を通過しつつも帰って来れないという何とも恐ろしい結末である。それはホフマンが語って聞かせた親友の娘マリーが、長生きできないことを予感し、彼女のために、現実とは違う場所に美しい世界を用意したとも考えられる。最愛のマリーのために書いた夢物語は、主人公が体験した世界は、夢とは言い切れず、どこかにあることを示唆し、ドロッセルマイヤーはそこを往復する魔術師的な人物として、夢であってほしい残酷な現実をむしろ語っているのだ。

日本語版を翻訳した種村季弘(河出文庫版あとがき)によると「滑稽で不気味、気が良くて残酷、美しくて醜悪、エレガントで胡散臭い。そのどちらかではなくて、どちらでもあるのがホフマンの作中人物。かわいいか不気味かではなく、善と悪、美と醜がまだ分かれていなくて、何もかもがまるごとそのままにある“子供の世界”」それが「くるみ割り人形」の世界だと言う。そしてカギを握るドロッセルマイヤーのことを「子供は優しいだけの人より、自分たちのやんちゃ、つまり汚れのない野生につき合ってくれるドロッセルマイヤーのようにどこまで広がっていくかわからない、善悪や美醜以前でもあれば、善悪や美醜の彼方でもあるような人が大好きなのです」とも。原作での登場場面は「ちんちくりんの不気味な男がひとり、腕に大きな箱を抱えて廊下をこっそり忍びあるいていた。<中略>まるきり見栄えのしない男だった。チビでやせっぽち。顔はしわだらけで、まっとうな眼のあるべきはずのところには大きな真っ黒な絆創膏、髪の毛だって一本も生えていない」とある。風体異形、恐ろしいような滑稽なような、不可思議な老人というイメージ。バレエでは、流麗に踊るので、醜くはないが、つねに不気味な影を落としている。ただ、どの舞台も一貫している点は、子供たちは彼に対して、怖がりながらも好奇心を隠せない、そういった存在であるところだ。

このように、現実と幻想の関係を描こうとしたホフマン原作は、複雑な構成ながらも類い稀な童話である。あたかも人形と人間の世界が通底し、あるいは転倒していくという幻想性、その不思議なリアリティを、少女の目線で追う興奮がある。

以上のように、バレエと原作、それぞれの作者が最も私的な想いを基盤に創り出した、死の哀しみが漂う「くるみ割り人形」とは、その時代と演出方法によって、物語の視点が自由自在に変わる「変容の歴史」なのである。いまこの瞬間も、バレエの台本に忠実なもの、原作寄りのテーマを持つもの、さらにはそのふたつが混ざり合ったものが、世界のどこかで新たな演出により、新しい変貌を遂げようとしている、まさしく“生き続けている”作品なのである。
  

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